うさぎ鉄道 レイアウト制作の思い出(3)
中学に入って最初の期末試験が終わってから、新しいレイアウトに着工した。
ベースとなった台枠は2年前に作ってもらった定尺1枚のものだ。5.5mmのベニヤと、縁に幅100mmくらいの杉角材を貼り付けたもので、かなり頑丈なもの。
このベースの上に、なぜか20mm角くらいのラワン角棒を張り巡らせ、その上に3mmベニヤをかぶせた。勾配があるところはこの3mmベニヤを切って持ち上げ、川や池は穴をあけると底にベニヤのベースが見えてくる。
なのだが、配線のコードを通すときは二つのベース板に穴をあけて通さないといけないし、ほとんどの平地は二重底にする意味がない。自分でも何でそんなことをしたのか、よくわからない。。
プランは、前にも何度か書いたけどTMS312号('74年6月)の折り込み、中尾豊氏の手になるものだ。
改めて折り込みのイラストとプランを眺めると、何よりもフレキの特性を生かした流れるような曲線がひじょうに美しい。
これは中尾氏、またはこの時代のTMSとその界隈に顕著な特徴かもしれない。当時でも組線路を使ったレイアウトは盛んに作られていたが、70年の半ば頃は本格レイアウト=フレキ使用というのが暗黙の了解になっていた感がある。そして、フレキの特性をフルに生かすため、ひじょうに緩い曲線が特に意識されたのだ。最近の模型界の状況は全然わからないが、今でもフレキを使って緩いカーブ、というのはふつうに行われているとは思うけど。
中尾氏は線路の美しい曲線にこだわりがあったようで、この少し後のTMS321号(75年3月)でも緩和曲線を見事に取り入れたプランとその記事を書いている。
今書店でよく見かける、池田邦彦さんや諸星昭弘さんのレイアウトプラン、イラストもとても素敵だが、個人的には中尾豊氏のレイアウトプランやそのイラストがいちばんしっくりくる。
池田さんは漫画家のせいか、プランに対するナラティブが強いんだよね。尤も、今どきのTMSはそんなレイアウトが多いので、その流れに沿っているのだとは思うが。
中尾氏の場合、ご自身の考えておられる運転の様式がある。蒸機中心、オートカプラーの解放機能を駆使した入替、短編成中心という前提が暗黙の裡にある。このプランも、旅客列車でいえばせいぜい3両ぐらいが似合いなのだと思う。
そういうことは中学生の自分にも何となく感じられたが、それとは別に頭の中ではどんどん妄想が広がっていったのであった。
同じ76年の夏ごろに、「シーナリー・ガイド」を買った。
1950年代後半から、1970年代初頭頃までの日本の鉄道風景を描いたものだ。
これには非常に強い印象を受けた。
76年というと、この年の3月に国鉄最後の蒸気機関車が火を落とした時期だ。煙を見ることこそできなかったが、まだ蒸機時代の施設や沿線の風景は遺っていた。幹線でも例えば高崎線鴻巣の駅構内には貨物引き込み線があり、黒いワムが数量留置してあった。
頭の中に広がっていたのは、目の前を走る181系「とき」」や「あさま」、165系「佐渡」とかじゃなくて(勿体ない!)、古の薄暗い、煙の臭いのする駅構内と黒っぽい客貨車や側線を行き来する機関車という風景だった。
これに、海外鉄の要素が加わる。
当時のNの蒸機というとC11, C62, D51の3種類だけ(C50は製造終了後長期経過)という状況だった。あえて言えばこれにトミーのKSKタンクを加えた4種類が、日本型上記のすべてだったのだ。上記以外の形式が製品化されたのは、1980年のC51なんじゃないかな。
ので、もうすこし種類が欲しいとなると、当時は当たり前に行われていた?輸入品欧州型を同居させる、という方法が必要になる。
ドイツのBR024型蒸機はなんとなくC56の風味がある。改造してスケールにするのは非常に無理があるが、雰囲気だけ蒸機するなら十分だ。いちどそれを受け入れると、50,52型の大型貨物機や、01型パシフィックなども視野に入ってくる。
実際、このあとCタンクのT3が入線することになるが、頭の中の妄想には様々な蒸機がレイアウトを走る姿が浮かんでいた。
先ほど、煙臭い蒸機時代の駅構内と書いたが、実はそれとは裏腹に、駅本屋と信号所は近代的なタイプを自作していた。
駅本屋は「シーナリー・ガイド」に近代的なタイプとして紹介されていた、奈良線玉水駅のものを参考にした。実物はレンガ壁らしいが、模型ではファーラーの石壁模様の紙(灰緑色)を使った。この模様紙(ボール紙ぐらいの厚さ)は、本線の擁壁にも使っている。本屋は翌年だったか、ノーマルな国鉄風のものに置き換えている。信号所は鉄筋モルタルのもので、たしか誠文堂新光社の、昔の鉄道模型入門書(HOゲージ)の記事から作ったものだ。今見たらどう思うかわからないが、当時は結構よくできたと思っていた。
(つづく)
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