東武81103F 新製艤装のころほか
久しぶりに古い写真の話だ(たしか、一部の写真は以前にも掲げた記憶があるが、いま探しても見つからなかった・・)。
1980年、いまから36年前の6月中旬か下旬ごろの土曜日のことだ。
当時学校は半日だったが、帰りに鶴瀬駅の貨物側線に8000が止まっているのが見えた。
いったん帰宅してカメラを持ちだして、駅に戻った。
この側線は、今でも線路の一部が残っているが、平日は毎日貨物列車が退避していた。もうだいぶ記憶が薄れてしまったけど、たしか午後3時台に下板橋を出発して、この側線で40分近く退避する。貨物列車の廃止は1986年10月のことで(たしか14日)、廃止直前に写真を撮りに行った。そしたら、秋の日は短くてすでに暗くなりかけていて、当時せいぜいISO400だったネガフィルムでは撮影できなかった。
電車は81103Fだった。前年11月のダイヤ改正時(柳瀬川駅開業、大山駅の踏切解消と各駅停車の10両化など)、8193F-81101Fという大量増備を行ったが、この年はこの81103Fと81105Fの2編成16両が新製された。
この年の増備車の特徴は何といっても、この押え金式のドアだ。8000系は1963年の登場時から74年の8166F,8568Fまでが黒色Hゴム、内張り鋼製塗装の仕様で、8167F、8569Fから黒色Hゴム、内張りステンレス無塗装になった。
Hゴムというのは、今はほぼ絶滅したと思うが、1950年代半ばごろからこの頃にかけて、固定窓の取り付け方法として広く普及していた。ゴムが劣化してしまうのが問題らしくて、1970年代の終わりごろ登場した新車はアルミ押え金方式に変更されたものが増えてきた。
押え金方式自体は別に新しいわけではなく、東急や営団などでは古くから採用していた(両社ともHゴム方式の車両と併存していたが)し、関西ではHゴム方式のほうが珍しかったんじゃないかな。イニシャルコスト的に、Hゴムのほうが安かったのかもしれない。
国鉄でいえば、79年の201系試作車は全面的にHゴムが排除されていて、側面の雰囲気がかなり変化した。
余談ですが、古いクリームと赤色の電話ボックスも、窓の固定は黒色Hゴムですね。あれと、今でも見られるアルミ押し出し材の電話ボックスの間に、アルミ製で窓を抜いたようなかたちの過度期的なボックスがあったと思うのだけど、今検索しても画像が出てこないな。。
話が横道にそれた。
このときは、車内の広告などを取り付けていたので、営業運転に向けた最終段階だったのだろう。
鶴瀬駅ふじみ野方には、いまでも保線車両向けに簡易渡り線があるが、当時は普通の分岐器を使った本格的な渡り線であり、今とは逆に上り線から下り線への片渡りだった(ちなみに、保線車両の側線も当時からあったが、ポイントの分岐方向が今とは逆で、ホーム先端部にポイントがあった)。
前述のように、退避線は午後遅くの貨物列車以外、通常は使用されていなかったので、こうした試運転列車にはよく使われていたようだ。
このあと9000系試作車が習熟運転のため、この側線に止まってるのを見たときは、それこそ狂喜乱舞したものだ。。
ついでなので、同じころ撮影した池袋電車区(当時)のスナップ。カメラはOlympus OM-1、レンズは50mm F1.4なので、網目が切れないですね。左の編成は中間3両が非冷房という、当時の典型的な編成。ATC化のため、先頭車だけ新製して、中間の8両が全部非冷房という編成もあった。この場合、電源がないのでクハの冷房も使用できなかった。が、一部の利用者は、運転士だけ冷房しているんだろう、と勘繰る人もいたりした。。
赤羽線が103系になったのはたしか’78年初めごろ。山手線が黄色の101系から103系に変わったとき、赤羽線のみ101で残されていた。103系化されて、黄色塗装のみ引き継がれた。
もっとも、全車黄色の編成はめったになくて、当初から黄色と緑の混結が多かった。クハは低運が主力だったが、次第に緑のATC車が先頭に立つことが多くなり、'79年には黄色いATC車が登場した(新製ではなく、200番-300番台の塗り替え)。今見ると何とも思わないが、高運転台の黄色いクハが出たのはこのときが最初だ。
黄色は埼京線には引き継がれなかった。今思うと、外回り電車は新宿でも池袋でも、ホームの反対側に黄色い電車が止まっていたわけで、勘違いして誤乗するひともいたのではないか。。
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