先日鉄コレの3000系のことを書いたとき、東上線にいた3000系のことが話題になった(30000系じゃないですからね・・・)。
私が「3000系」を東武の戦前型を車体更新した吊掛式の車両として、はっきり認識したのは’70年代の後半のことだ。その頃3000系は東上線には既になく、全車が野田線七光台検修区に配属されていた。当時野田線は18m車を6両、冷房サービスのために配属された8000系を4両で主に運用していた。中間モハ+サハを、他の4両固定から抜き出して6両固定編成というのも、出始めた頃だった。
その数年前までは東上線にも配属されていた。東上線からいつ18m車が撤退したのか、手元の資料には記載がない。ただ、昭和47年1月31日現在の車両配属表を見ると、14両が配属されている。
3105+3205+3305+3405
3110+3210+3310+3410
3501+3601
3502+3602
3503+3603
これは鉄道ピクトリアル’72年3月号増刊(東武鉄道特集)に記載されている資料だ。尚、私の持っているのは昭和47年3月10日発行、昭和50年4月15日複製、となっているもので、表紙が写真で複写されたような(活字が何となくにじんでいる)ものになっている。普通なら増補改訂版、みたいな言い方をするのだが、複製というのは珍しい。
全く同じ内容ではなく、終わりの方に、通常号に掲載された「東武鉄道・補遺」が追加されている。これは、ピクトリアル’73年8月号(だったと思う。9月号かも知れない)に掲載されたものをそのまま転載している。この号も持っている。
配属表だが、これは活字ではなく、当時鉄道が関係者のために作成していたものを、そのまま複写したものらしい。手書きである。
余談だが、’79年だかの今頃、友達と東上業務部を訪れ、同じような配属表のコピーをもらったことがある。ゼロックスコピーではなく、青焼きと言われる、湿式コピーだった。
ファンが語る系列の呼び方は、時として俗称というか、現場と違っていることも多いし、現場でも便宜的に、現場用語としてとおっている言い方をすることもある。
東武の場合、旧型車から1720型までを二桁でよぶ言い方がある。7800系列を78型というように。これは1961年の2000系以降の車には適用しないことになっていた、と思っていたが(附番の方式が変わったので)、現場ではそうでもなかったようだ。配属表でも、2000系の番号を羅列した最後に、(20,160R)と書いている。2000系が合計160両あります、という意味だ。Rは両である。
8000系も、ふつうは4,6両固定と2両固定を区別しないが、配属表は(81,146R),(85,72R)と書かれている。81は、4両固定、6両固定どちらにも使われる。85は2両固定のことだ。これは、業務上の必然性からそういう言い習わしになったのかも知れない。ちなみに、先ほど触れた「補遺」の筆者は花上嘉成氏だが、彼は8000系、8500系、3100系、3500系などという言い方をしている。8100系とは言わないのに、なぜ3100系というのか、よくわからない。旧32型と区別したいからかな?
話があちこち飛んだが、実は3000系と呼ぶようになったのは、昭和46年12月の改番からで、それまでは3500系と呼んでいた。モハは運転台つきも中間車も、同一形式だったようだ。番号は1から順番ではなく、台車形式によって分けられたらしく、編成単位でも統一されず、かなりややこしかったようだ。3000と呼べなかったのはたぶん、種車がモハ3200などという番号だったので、重複を避けたかったのだろう。配属表には、森林公園区所属の3000系として、(31 8R),(35,6R) と記載されている。
2両固定は最初に更新され、東上線(当時川越区)に配属された3編成だと思うが、番号は当初1~3ではなかったらしい。モハでいうと、3504,3507,3565,3571,3581のうちの3両らしいのだが、このうち2編成に中間モハ、サハが追加されて4両固定に変わったらしい。たぶん、3504,3507,3581なんじゃないかと思う。改番はおおむね更新の順番に行われた、と言うから。しかし、どの編成に2両組み入れたかはわからないから、やはり謎だ。というか、しっかりした資料は誰かが持っているはずだ(すみません、根性ないのでこれ以上調べられません)。
東上線から18m車が、いつ撤退したのかの資料はないが、昭和47年11月に、野田線の6両編成運転が始まっているので、その前だと思う。車体だけ見れば、結構きれいで新しく見えるし、逆に73,78などは板張りの床であの車体だから、乗客から見るとどちらが快適に思えただろうか?それと、池袋口の撤退はいつだったのだろう?
まあとにかく、70年代後半の東武鉄道では、幹線系(と都市部のローカル線)は20m級大型車(地下鉄乗り入れを除く)、ローカル線は主に18m級の更新車、という棲み分けになっていた。3000系、3050系、3070系(この番号もあとから改番されたもので、昭和54年に78型の更新車ができるまでは5000系と呼んでいた)の区別は、主に電動機出力の違いだが、運転室仕切りとか、細かい外観にも違いがあった。

小泉線の3050系、たしか3151F。なぜかすごい傾いている・・。あれ、となりのコマが右端に出ちゃってますね。。

館林駅。’94年9月。

この座席と壁面は、東武博物館にたしか保存されていたな。
吊り広告はケンウッドのウッドストックですね。。CD時代ですが、まだMDではなくカセットでした。90年代後半頃まで、車内広告には家電が掲示されることも多かったようだ。覚えているのは、アイワが黄色い背景で、頻繁に広告を出していた。
今は車内広告は相当厳しいんじゃないですか?メトロ東西線なんて、網棚上の部分はほとんど空白の車両が多い。メトロは車内には自社広告を出さず、駅などにやたらと自社をアピールする広告を出している。あれは個人的には逆効果。もし私がメトロ株の大口投資家だったら、糾弾してやりたいところだが。
東武、西武などは、よく見ると自社の系列会社の広告が多くなっている。不動産、ホテル、スキー場とか。それはそれで意味があるけど。

運転室部分だけ、後ろに拡張した形の仕切りは、3050系の特徴だが、同時期の8000系も同様のスタイルのものがあった。8000の場合は昭和45年製だけ、でしたっけ?昭和46年は中間車(サハ+モハ)しか作っていないし、昭和47年からは助士側も拡大した冷房車となる。昭和45年車も、冷房化時に同じ仕様に改造された。
初期の車の内装デコラは褪せやすくて、こんなふうに肌色に近いうすクリームに変色し、表面の艶も失せている。8000の冷房改造車は、車端部など一部のデコラを取り替えて、他はそのままだったので、色がちぐはぐになって目立った。更に、後から中間車を追加して6両固定になった初期編成は、追加車とオリジナル車の内装色が違って見えた。
後期(たぶん70年ごろ)のデコラは色あせ対策をしたらしく、時間がたっても色が変わらなかった。これは、国鉄103系などの淡緑色の内装でも同様だったようだ。101系、気動車みんなそうだが、10年ぐらいすると緑が抜けて灰色というか、青鈍色になって、薄汚れた感じに変わってしまうのだ。それが、70年代頃からの増備車はいつまでたってもきれいだった。
いやあ、また語りすぎましたねえ。うろ覚えのものが多いのですが。
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