38年前の駅時刻表
少し古い話だが、正月に実家を掃除していたとき、壁にこのシールが貼られいているのを見つけた。
鶴瀬駅の時刻表だ。
昭和52年10月21日改正、とあるから、みずほ台開業に合わせた改正だと思う。
東上線の他、武蔵野線北朝霞と川越線川越の時刻表も掲示されている。
レンズ(Lumix G 20m F1.7)が片ボケしているのか、右下の解像がいまいちだがご容赦を。
時刻表や運用につては専門ではないので、要領良く書く自身がないが、お好きな人ならここから様々な情報を読み取ることができるだろう。
一つ一つ説明していくと、当時の運行状況を全部語ることになってしまうので、あまり詳しく書かないが、この頃はもちろん有楽町線との直通はなし、池袋-寄居間は一部通しで運用され、秩父鉄道三峰口へ平日1往復が直通運転されていた。
列車種別は特急、急行、準急と各駅停車のみ。ラッシュ時の10両編成運転は前年11月から始まり、この改正で拡大された。ホーム有効長が6両までしかなかった(ラッシュ時の8連のうち2両は締切扱い)大山駅が、踏切立体化で8両対応になり、朝の各駅停車が一部8両化された、のが確かこのときだと思ったけどな。あの頃のこと、忘れるはずないと思ってたけど、やっぱり忘れるねえ・・。
ときわ台停車とあるのは当時、朝ラッシュ時の準急を各停と平行ダイヤにしていた頃の措置。ラッシュ時上りは準急と各停のみで、上板橋、中板橋での追い抜きは行われていなかった。普通に走ると速すぎてしまうので、停車させたみたいだ。
朝は成増-池袋間を日中の倍位のかけて走るので、かったるくて仕方なかった。子供の頃はよく気分が悪くなったりもした・・。
日中は池袋を00,20,40に急行が、10,30,50に準急が交互に運転され、間に1,2本の各駅停車が走った。夕方は優等列車の間隔が8分ヘッド(間違えてたら教えて)になるが、急行と準急の交互運転は変わらない。日中の各停川越市行きは、中板橋で準急に抜かれ、志木で準急に接続する。
今回発見したのは、この頃は17:01発の各停寄居行き(鶴瀬発は35分頃)がないことだ。これより後で設定されたのだろう。
書き遅れたが、この頃は上り列車に始発駅の記載があるのが大きな特徴だ。一般的な乗客は、始発駅情報など役に立たない(森林公園始発より上福岡始発の方が空いている、という判断はできるかもしれないが)のに、なぜ記載したのか不思議だ。というのは今の自分の感覚だが、子供の頃はそれが当たり前だと思っていた。友人に指摘されて初めて変だと気がついた記憶がある。
既に話が長くなってきているので、まあ細かな話しは別な機会に書くことにしよう。特急の話だけ。
特急は池袋-志木-川越-川越市-坂戸-東松山から各駅停車で、今の快速みたいなものか。みつみね、さだみね、むさしのなどとヘッドマークがついていたから、今より面白かったかもしれないが、なぜか子供の頃はとんと興味がなかった。車両が8000で代わり映えしなかったし、運転系統もフィットしなかったからかな。
小川町より北に行く列車は編成が6両に限定される。森林公園行きの特急(武蔵野)を含め、特急は6両で運転されていたと思ったけど・・。
川越線は当時非電化、車両はキハ35系のみで運用。編成は日中3両くらい、ラッシュ時は7両で運行していた。今は川越で運行が区切られていて、全線直通する列車はないが、当時は直通か川越止まりという運転だったと思う。
先日減便が伝えられた同線だが、38年前はこんな感じだった。
変化の幅は武蔵野線の方が大きいだろう。まだ新松戸までしか開業していないが、当時はこんな感じ。先の川越線と大差なく、1時間近く待たされるときもある。さすがに隔世の感があるな。車両は101系1000番台(先年まで秩父鉄道にいた)のみで、冷房車はこの時点で0。もっとも、珍しくはなかったが。
書くと長くなるので、1月からずっと書こうと思って後回しにしていたが、やっぱりぐたぐた書いてしまいましたね・・。
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