趣味界では有名なブログ「編集長敬白」が、名取編集長の退任に伴い、年内に終了することになった。
タイトルに深い意味はありません。。
先週赤羽線のことをちらと書いたので、もう少し引きずります。
久しぶりに古い写真の話だ(たしか、一部の写真は以前にも掲げた記憶があるが、いま探しても見つからなかった・・)。
(雑談です)。
近年新製された電車は屋根に冷房装置だけ搭載していて、通風器を省略している場合が多い。屋根一面ほとんど何もなくて、すっきりしている。
ステンレス車や、スチールボディでも屋根だけステンレスにした車両などは、コルゲーションがあるので多少変化があるけど。
自作模型を作るのはやっかいそうだが・。
通風器の省略は、外見上もすっきり見えるし、保守面でも楽なのだろうね。
冷房装置自体が進化して、外気との空気交換をコントロールできるようになったのかな。
以前は冷房装置とベンチレーターを併用していた。
このベンチレーターは押し込み式ではなく、吸い出し式(ガーランド型)なのだそうだが、その話は後でするとして、とにかく通勤車に冷房がついた頃はこの併用型が主流だった。
それが近年になって、この併用型の車両についていたベンチレーターを撤去する動きが目立つようになってきた。JR西の更新車が有名だったが、近年は西武も同じようなことをしている。
この写真に写っている冷房装置、上の写真と同じ型のように見えるが、通風装置の有無で車内換気にどの程度の違いがあるのだろうか?
もしかしたら、ほとんど違いはないのかな?
この車両は西武2000N系だが、オリジナル2000系はこのような箱形ではなく、グローブ型ベンチレーターが載っている。
ちょっとわかりにくい写真で失礼・・。丸形の通風装置ですね。
かなり大きい。通勤車など、車内が混雑しがちな車両に搭載されることが多かった。理由は通風機能が強力で構造が簡単だったから。国鉄では63型から始まり、歴代の通勤車、近郊型は113系の途中まで採用されていた。また、戦前型の旧型国電が更新される際も、ガーランド型からこれに交換されることが多かった。
近郊型でも、111,113系ではこのグローブ型だったが、115系は寒冷地を走行することが多いので、押し込み型を採用していた。また、仙石線に行った72系や新潟地区の70系なども、押し込み型に改造されていたようだ。グローブ型では通風量が多すぎて、寒くなるのだろう。
103系は初の冷房付通勤車だったが、従来から採用していたグロベンはそのままに、真ん中に冷房装置を搭載して登場した。車内の熱気は室内の上の方に上っていき、そこからベンチレーターで外に排出される、一方冷気は下に落ちていくので、乗客は涼しさを享受できる、という仕組みかしら。ただ、換気効果が大きいと言うことは、窓を開けて冷房つけているようなもので、冷房の効率は落ちそうな感じがする。
201系からは押し込み式に変わったが、要は冷房時代には昔ほど通風量は多くなくてもよい、という判断が働いたのだろう。
ちなみに写真(98年5月、お茶の水)はクハ103-103ですね。この時代の事はなんとなくわかるが、今、西武2000の何番がベンチレーター撤去車なのかとか、そういうことはぜんぜんわからない。もうおじさんなので、ついて行けなくなった・・。
グロベンは私鉄ではあまり採用されなかった。外見がかっこわるいから、とかよく言われるが、安っぽく見えるのが嫌われたのだろうか?
写真は東武73で、これは終戦直後に各社に割り当てられた国電63型の更新車なので、オリジナル車のベンチレーターを引き継いだようだ。63型を元に独自設計で作った78型は、ガラベン、後には押し込み型を採用している。
阪神の7801型は、新製車だけどコストを徹底して節減した結果、ベンチレーターをグロベンにしたらしい。後に3000系に改造される際に、ベンチレーターは撤去されている。
またまたちなみに、写真(81年4月、池袋付近)は、よく見ると池袋方の1両は押し込み型ベンチレーターになっている。ということは、両端の車両はモハ7329,クハ329で、中間は7302,302ということになる。おじさんなので、その辺のことは詳しい、はずだったが、もうだいぶ忘れてきてしまった。
西武だけは、かなり長い間ふつうにグロベンを採用していた。501系、451系あたりはガラベンだったのが、後年に作られた新性能車の601,701系はグロベンを採用している。
2000系オリジナル車の大半はグロベン採用車だ。
これ故に、今でも我々はグロベンを普通に見ることができる。
確か、前にも掲載したと思うが、雪の日の2000系。車内の暖房の熱気のせいか、一つだけベンチレーターに雪が付着していない。
というわけで、だからなんなんだ、という話でした。
いや、子供の頃は結構通風器フェチだったのです。特に列車が走ると、空気が吸い出されて換気ができるというのが格好良かった・・。
国鉄ホームから写しているが、赤羽線の方が少し長いのと、ホームがカーブしているために「並び」をきれいに撮るには東武ホームから撮るのが正解だ。この頃は50mmのレンズしか使えなかったので、周辺が広く写ってしまっているが、記録としてはそれも悪い事ではないかもしれない。1980年10月頃。
この頃の国鉄側ホームは、現在山手線が使用している5番-8番線の2面4線であり、一番西側の4番線を赤羽線用に使用していた。東武は国鉄の番線を受け継いで東から5番線-9番線としていた。1983年10月に、今の埼京線ホームができたとき(当時はまだ赤羽線)、名称変更して1番線-5番線となった。
5番線と6-7番線は目白寄りにもうけられた引き揚げ線につながっており、今のような頭端式ではなかった。引き上げ線は2線あったが、6両しか有効長がなかったそうで(時々78が留置されているのを見たことがある)、余り使われてはいなかったようだ。5番線から見ると線路が右に急カーブしていて、レール自体も細く頼りないような線路だった。8-9番線だけ、今と同じような頭端式のホームになっていた。そもそも南口は今のように地平にはなく、中央口のように地下に改札があった。デパートが改築になった92年頃に、今の形になったと思う。
5番線は「特急、急行、準急のりば」であり、6番線、9番線は降車ホーム、7,8番線が各駅停車の乗車ホームだった。デイタイムの優等列車は毎時00,20,40分が急行、10,30,50が準急だったので、わかりやすかった。日中は78は6両が多く、8000も8両が中心だった。10両は朝夕のみ。
国鉄側は山手線と赤羽線だけだから、今に比べると遙かに地味だ。今の1-4番線ホームの辺りは貨物側線になっていて、朝8時頃にはいつも貨物列車が停車していた。76年頃から通学に山手線を使い始めたが、ホームで電車を待つつかの間、機関車を眺めるのが楽しみだった。機関車は毎日のように違っていた。
その頃の機関車は戦前のEF10,12、戦時型EF13、そしてEF15と、バリエーション豊かだった。EF10は初期の帯付きのタイプや丸形車体のもの、EF12,13もそれぞれ微妙に違いがあり、その違いを観察するのも楽しかった。貨車は当時の一般貨物用の車両が多かったが、模型でしか見たことのなかったワム50000が、側面を合板張りにした形で活躍していたのが印象に残っている。
当時はデジカメも携帯もないし、それに当時の山手線は入場規制を何度も繰り返さないといけないぐらい混んでいたので、写真を撮るなんてとてもできなかったし、たぶん思いつきもしなかったと思う。戦前のロコはやがて引退し、EF65が中心となるが、列車自体はだいぶ後まで同じように停車していたと思う。
ついでなので、池袋電車区付近の様子を。’80年6月頃。カメラを持ってうろうろしていたら、不法侵入すると思われたのか、職員の人が見張りにやってきた。こちらはもちろんそのつもりはなかったけど、ちょっと陸橋の上と、フェンス越しに何枚か撮ってみた。
望遠レンズを使うと、焦点距離の関係でフェンスを飛ばせると、友人から聞いていたが、やはり標準レンズしか使えないので、網目模様が残っている。昔は全部MFだから、ピントがフェンスに来ることはない(というより、そんなことは考える必要がなかった)。
留置中の103系。模型のようにTcMM'Tcを組んでいる。赤羽線は’78年に103系化された(それまでは101系)。それまでは車両が違っていたので、塗装は編成単位で整っていたが、103系になって、山手線と混用されるようになり(編成は8両)、時折ウグイスとカナリヤの混色編成が組まれることがあった、というより、一時期はほとんどそうだったかもしれない。
当初は低運転台のクハが充当されていたが、79年6月頃、カナリヤ色のATCクハ(高運転台)が池袋電車区に留置されているのを見た。たしかTc103-269が最初だったように記憶しているけど・・。271だったかな。高運転台でカナリヤ色の車両はこれが最初だった(それまではウグイス、オレンジ、ブルーのみ)。
踏切にて。色味を直しすぎたな・・。
たまたまちょうど5年前の画像アルバムを見ていたら、乗り合わせた201系(モハ200-1)の写真を見つけた。
201系は試作車の営業運転開始初日(1979年8月)に高尾まで往復し、バイトに向かう緩行線から見た新車の量産型に魅了されてGMのキットを作り、沿線住民として4,5年通勤に利用した。その間に座席の色が変わり、つり革が増設され、正面に大型電照幕とスカートがついたりした。住み始めの頃、まだまだ新しいと思っていたのに、内装がだんだん色あせて音もうるさく感じられる事に驚いた記憶がある。
転居してからも比較的近くを走っているので、利用する機会は多かったが、あまり趣味的な目で見ることはなく、引退を追いかけることもしなかった。ただ、このときはふと思いついて、あの甲高い走行音を録音しようと、会社の帰りに東京駅から武蔵小金井当たりまで乗車した。ポータブルMDで録音したが、となりに座る女性の話し声まで録音されてしまい、あまりうまくいかなかった。
音源を加工すればブログにも載せられるだろうけど・・。まあそのうち。
クモユニ74と同時に予約していたのだが、ようやく本体の111系が到着した。今回は到着のお知らせを受けてからほぼタイムラグなしで発注し、今日到着した。
オリンパスMZ14-42を、F22まで絞って、なるべく視線を下げて撮影した。解析現象何のそのという感じだが、天然ジオラマモードになるよりはましだ。
絞らないで撮るなら、真っ正面から狙うと超望遠で撮影したように見えるかも。
グリーンマックスから同じプロトタイプのものが出たことがあるが(1976年)、KATO
としては初めての111系である。セットは3種類あり、基本7両、増結セット4両(サロ+モハx2+クハ)、付属編成4両。今回買ったのは付属4両である。クモユニと合わせて5両を組むつもりだった。
ただ、セットの説明書を見ていると、連結するにはクモユニのアーノルトカプラーを切断して、付属パーツを取り付けないといけない。それほど手間がかかるものではないが、何となく不可逆な改造には抵抗感を感じる・。とりあえず、古いTOMIXの113系につなげてみた。
そのうち面倒くさくなって、これが定着してしまうかもしれない。
クモユニ同様、全体の作りはそつがなく、優れた造形だ。室内のシート部分がライトブルーで整形されており、この色がかなり目立つ。窓ガラスの透明度が高いので、余計目立つ。往年のカツミの特急用シートみたいな色だが、なぜこんな色にしたのだろう?
本当に気になるようになったら、塗り替えてしまおうかと思う。
・・今度コンデジで撮り直しましょう。
右の113系(1000番台)はトミックス最初の113系で、1977年11月頃発売になった。その直後12月頃購入。個人的には目の覚めるような買い物?だった。当時の目から見てもかなり荒っぽい作りではあったが、何度か改修工事をして、今日まで生きながらえている。TOMIXのスプリングウォームはこの形式から始まっているが、当たりが取れたのか普通のウォームギアの車両より余程静かである。
ちなみにKATOの111は音質こそ悪くないが結構うなる感じだ。MT46ぽいと言えばそういう気もするが。
Apr. 29, 2012 Panasonic Lumix G3, 14-42mm.
この原型スカ色は実に美しいと思う。115系もいなくなったら、一体何の写真を撮ればいいのだろう?幸い、E257系はフォトジェニックだけど。
もう24年も前、相模湖の駅前の喫茶店の2階で、女の子たちと話をしながら、駅を発着していく115系たちを眺めていたことがあった。あの頃はまだ原型車たちも健在で、編成も短く模型向きだな、とぼんやり考えていたことを思い出す。市販品があることは知っているが、自分なりに手を動かしてみたい。できればNよりも大きなスケールで、ボディの塗装の艶がきれいに出るように塗ってあげるといいと思う。実物があるうちに手をつけてみようか・・。
ところで、今「山スカ」で検索すると、115系も出ては来るが、「山スカート」というのも結構出てくるんだね。そのうち電車の方は死語になってしまうのかな。
信州色。これももう登場してから20年になるのか。
E233系。カメラはMFTの白い「ママ一眼」なので、こういう有名撮影地でフルサイズのレフ機とか、白レンズの人たちと会うとちょっと恥ずかしい。でも、安いしAF速いので、十分使えるんだけど。
E257。このあと、183系が来たのに、失敗してしまう。
G3の連写バッファがいっぱいになり、ボディにキロポスト?がかかってしまった・・。いや、カメラのせいじゃないな。焦って撮ったからだ。今度は古いD70sを持って行こうか。
本家うさぎくんでは、より一般的な記事を書いています。
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