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2016年12月 4日 (日)

「編集長敬白」が年内に終了(と、201系)

趣味界では有名なブログ「編集長敬白」が、名取編集長の退任に伴い、年内に終了することになった。

 
正直、毎日チェックしていたわけではないが、趣味性とニュース性が適当にバランスされた内容で、編集のプロらしく読ませる内容だったので、好きだった(まあ、好みが必ずしもシンクロしていたわけでもないが、その辺は自分なりに適当に読み流しながら。。)
 
名取氏の場合、趣味と仕事がかなりの割合でシンクロしていたわけで、うらやましい気もするが、それなりに気を使わないといけなかったり、私たちの知りえないご苦労もあったのでしょうね。ご苦労様でございました。
 
ブログが始まったのが11年前と書かれていた。2005年、平成17年である。それほど昔のこととも言えないが、つい先日、とも言い難い微妙な年代だ。
 
名取氏の記事にも書かれている通り、この10年のネットの進歩は、ブログから各種のSNSへの変遷をたどり、より即時的、断片的な情報が飛び交うようになった。ツイッターなどでは例えば、新車の甲種回送の様子がリアルタイムで人を変えながら報じられたり、一般の人でも事後現場の様子を、テレビニュースよりも早く詳しく投稿している。
 
とはいえ、そうした進化の方向性は、11年前にも示されていたことであり、技術の進歩に伴い、徐々に実現してきた、とも言える。これが21年前、1995年となると、インターネット上のコンテンツはごくわずかなもので、携帯やモバイル機器で画像を送るなど考えられなかった。
 
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 名取氏のブログが始まったころ、より半年くらいあとかな、中央線の201系置き換えの話が新聞にでた。たぶん、ネットの新聞記事を見たような気もするが、当時はまだ紙で読んで、時折スクラップにしたりしていたな。。
 
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 中央沿線の同僚(非鉄)がいて、ランチのときにそんなことを話題にしたのを覚えている。
私は中央線OBであり、ちょうど201系の全盛期?であった90年代初めの数年間、通勤で利用した。その後も、用務先に週に数回利用するなどしていたので、なじみ深い車だ。
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 ’05年の12月、はじめて買ったデジタル一眼レフ(Nikon D70s)で撮影した。センサーサイズの関係で、フィルム時代とは画角が変わり、手持ちの70-300mmのレンズがより望遠寄りに写せるようになった。それが面白くて、何度か撮影に行った。
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 201系試作車は、友人が持ってきた鉄道ファン(’79年4月号)で初めて知った。同年8月の、営業運転初日はニッポン放送の昼間のラジオニュースで知り、急遽新宿まで出かけたら、偶然201系が入線、そのまま高尾まで乗車した。カメラも何も持っていなかった。(自分のカメラはなかったし、フィルムは普段入れておかないものであり、どこかで買う必要があった)。
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 ’84年ごろ、両国かどこかまで毎日バイトに出かけ、すれ違う快速線にピカピカの201系が増えているのを実感。もらったバイト料でGMの201系量産車キット一式を買った。今でも探せばあるかな。
 
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 通勤で利用した数年間で、座席の色が茶系統から水色に、正面の特快ヘッドマークが電照式に、スカートがつき(これはいつだっけ?)、連結面の窓が塞がれた。電機子チョッパ制御のモーター音は独自のもので、高架線を走っていると遠くまでその音が鳴り響いた。
 
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KATOのこの模型を買ったのはたしか、'97年ぐらいだったかな。。
当時の最新の姿だったと思う。
 
もう2005年ぐらいになると、はた目にも老朽化が目立つようになる。「あずさ」や「かいじ」を利用するとき、(新宿まで乗りとおさず)八王子くらいで降りて快速に乗り換えないといけないときがあり、快適な特急から乗り換えると、うるさくて隙間風のふく車内をしんどく思ったことも一度や二度ではなかった。
 後年、E233系になってからは、その快適性ががらりと変わったことに驚いたこともある。
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201系はすでに過去の車両だが、活躍を終えたのは(東日本では)10年より少し前のこと。普段はもう忘れいてる存在だが、こうして模型を引っ張り出したり、写真を見ると、つい先日のことのようにも思えてきて、なんだか不思議な気分だ。
 
もっとも、引退して10-15年というタームで見ると、東海道、横須賀の113系とか、183系の房総特急とか、ほかにもいろいろあるはずなんだけどね。。

2016年8月15日 (月)

夏の国電

タイトルに深い意味はありません。。

カレンダー通り休みはとっていますが、お盆休みは部下に譲ってますし、諸事情であまりでかけられない。それ以上にあまり出る気になれないというのもある。
 
ので、絶賛引きこもり中であります。メインブログでも書きましたが、先週はコンピュータが故障し、その対応にも追われておりました。
 。
そんなわけで、回復したPCを前に、少し前の画像を振り返ってみていました。
2002年の夏の記憶です。。
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鶴見線の103系。今残っている写真は、こんな感じの難あり構図のものしかありません。
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2002年というと、ちょうど今の205系がそうであるように、103系の追い込みが始まったころでした。このころはまだ仙石線、京葉線、武蔵野線、川越線、八高線、南武線、鶴見線、そしてたしかまだ常磐線でも健在。他方、春から山手線に231系が入り始め、玉突きで205系の転出が始まったころです。(記憶に間違いがあったらご容赦を)。
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川越線、八高線にはすでに209系も入っていましたが、電化以来の103系も健在。
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かつて、通学で10年くらいお世話になったこの形、色。
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ただし、この103系3000番台は、もとは仙石線の72系970(600)番台。72系時代に乗ったことはなかったけど見たことはあった。まだ経年が新しかった(改造後2年くらい)のに、制輪子の錆で車体が汚れ、年老いて見えた。
72系時代は初期の黄緑1色、前面に黄色警戒帯、103系と併存時の水色、さらに103系になってからまた黄緑6号へと、短い期間でいろいろと変転している。103系のキットで簡単に作れることから、模型でも取り上げる人が多かったと記憶している。
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車内。冷房は後年の取り付けで、AU712。
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山手線などのATC車は運転台後部の小窓はなく、機器搭載のため、仕切りはドアぎりぎりのところにあった。中央総武緩行線などに配置された高運転台、非ATCの車両は、低運転台車と同様、小窓2枚だった。103系は低運転台車のころから、窓の位置は高いところにあったが、高運転台車の窓はこれよりも小さかったと思う。
 
 この、窓1個の配置は冷房試作車(クハ103-178,189)と同じ(細かい寸法等は違うかもしれません)。
 鴨居のところに大きな器具箱がぶら下がっている。
 運転台直後の戸袋窓は、初期のころから蓋をしてあるような形になっているが(タブレットで破損するのを防ぐためだそう)、最初は開いていたのだろうか。室内側も化粧板で埋められている。
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それと、ドアが半自動なので、開口部が小さくて・・といっても、この写真じゃよくわからないか。
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対向も103。いずれにしても、このころ103系の黄緑は、関東ではここだけだったので、その点でも貴重だった(この10年後に、京都でまた黄緑の103系に出会えるとは思ってもみなかった)。
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八高線電化時に登場した209系3000番台と。
209系や205系も、そろそろ置き換えでしょうかね。。

2016年7月 4日 (月)

赤羽線

先週赤羽線のことをちらと書いたので、もう少し引きずります。

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1979年4月か5月ごろだったと思います。
103系の車番はわかりませんが、走行中の赤羽行きの編成番号は31となっています。
池袋電車区(当時)に留置中のクハは、たぶん黄色なんじゃないかな。車番はクハ103-50のように読めますが、どうかな。。最近はN'EXの定位置となっていますが、この頃は赤羽線の編成がこのあたりに留置されていることが多かった気がします。
サンシャイン60は撮影時の1年前に開業したばかりですね。いまもこんな風に見えるのかな。
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これは上の写真と同じ編成ですね。運行番号4、編成番号31。
前面下の通風器が埋められている以外、ほぼ原形に近い状態のようです。
そんなことを忘れていたけど、赤羽線は8両編成でTcMM'TTMM'Tcと、これまた登場時とおなじ編成だったのでした。
これだけきれいなオリジナル編成が見られたのはこの頃が最後だったのではないかと思う。山手線の低運車はこの頃のこり数編成という状態で、9月に終焉を迎える。
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ATC車の方向幕は「赤羽線」となっている。低運車は「池袋-赤羽」という区間表示だ。低運にも赤羽線表記があったのか、その逆はあったのか、その辺は記憶がないというか、当時はあまり意識していなかったかも知れない。
ATC車(といって今通用するのだろうか)は'74年の初め頃登場し、山手線、京浜東北線を中心に配備が進んでいた。その辺は詳しい人がいると思うが、一時的に中央快速線にも配備されていた時期がある。登場当時はそれなりに新鮮な感じがあった。
模型では早いうちからマックス(後のGM)が製品化予告をしていたが、店頭に並んだのは'76年の夏頃、クハのみで、関水の103と併結することが前提だった。ほぼ時を同じくしてカツミ-エンドウから16番の製品がでたが、さすがにこれは冷房付き、ユニットサッシで編成が組めるようになっていた。
戸袋鴨居のところ、今の車両だと液晶モニタがついているあたりの広告枠に「国鉄ペーパーラジオ」という、鉄道の広報が掲示されていた時期がある。'74年の春頃、そこで山手線に新型車が登場しました、窓が小さくなって、ステンレスの飾りのついたスタイルです、よろしく・・みたいな紹介がされていたのを覚えている。
話は大きく飛ぶが、JR東日本になってからの広報で、人気漫画家の安藤しげきさん筆による「Jr.しげき君」が「連載」されていた時期がある。やはりドア上鴨居に掲示されていたと記憶する。当時主に201系の車内で見ていたが、結構楽しみにしていた。安藤さんはたしか連載中、かなり若くして亡くなられたんですよね。

2016年6月26日 (日)

東武81103F 新製艤装のころほか

久しぶりに古い写真の話だ(たしか、一部の写真は以前にも掲げた記憶があるが、いま探しても見つからなかった・・)。

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1980年、いまから36年前の6月中旬か下旬ごろの土曜日のことだ。
当時学校は半日だったが、帰りに鶴瀬駅の貨物側線に8000が止まっているのが見えた。
いったん帰宅してカメラを持ちだして、駅に戻った。
この側線は、今でも線路の一部が残っているが、平日は毎日貨物列車が退避していた。もうだいぶ記憶が薄れてしまったけど、たしか午後3時台に下板橋を出発して、この側線で40分近く退避する。貨物列車の廃止は1986年10月のことで(たしか14日)、廃止直前に写真を撮りに行った。そしたら、秋の日は短くてすでに暗くなりかけていて、当時せいぜいISO400だったネガフィルムでは撮影できなかった。
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電車は81103Fだった。前年11月のダイヤ改正時(柳瀬川駅開業、大山駅の踏切解消と各駅停車の10両化など)、8193F-81101Fという大量増備を行ったが、この年はこの81103Fと81105Fの2編成16両が新製された。
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この年の増備車の特徴は何といっても、この押え金式のドアだ。8000系は1963年の登場時から74年の8166F,8568Fまでが黒色Hゴム、内張り鋼製塗装の仕様で、8167F、8569Fから黒色Hゴム、内張りステンレス無塗装になった。
Hゴムというのは、今はほぼ絶滅したと思うが、1950年代半ばごろからこの頃にかけて、固定窓の取り付け方法として広く普及していた。ゴムが劣化してしまうのが問題らしくて、1970年代の終わりごろ登場した新車はアルミ押え金方式に変更されたものが増えてきた。
押え金方式自体は別に新しいわけではなく、東急や営団などでは古くから採用していた(両社ともHゴム方式の車両と併存していたが)し、関西ではHゴム方式のほうが珍しかったんじゃないかな。イニシャルコスト的に、Hゴムのほうが安かったのかもしれない。
国鉄でいえば、79年の201系試作車は全面的にHゴムが排除されていて、側面の雰囲気がかなり変化した。
余談ですが、古いクリームと赤色の電話ボックスも、窓の固定は黒色Hゴムですね。あれと、今でも見られるアルミ押し出し材の電話ボックスの間に、アルミ製で窓を抜いたようなかたちの過度期的なボックスがあったと思うのだけど、今検索しても画像が出てこないな。。
話が横道にそれた。
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このときは、車内の広告などを取り付けていたので、営業運転に向けた最終段階だったのだろう。
鶴瀬駅ふじみ野方には、いまでも保線車両向けに簡易渡り線があるが、当時は普通の分岐器を使った本格的な渡り線であり、今とは逆に上り線から下り線への片渡りだった(ちなみに、保線車両の側線も当時からあったが、ポイントの分岐方向が今とは逆で、ホーム先端部にポイントがあった)。
前述のように、退避線は午後遅くの貨物列車以外、通常は使用されていなかったので、こうした試運転列車にはよく使われていたようだ。
このあと9000系試作車が習熟運転のため、この側線に止まってるのを見たときは、それこそ狂喜乱舞したものだ。。
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ついでなので、同じころ撮影した池袋電車区(当時)のスナップ。カメラはOlympus OM-1、レンズは50mm F1.4なので、網目が切れないですね。左の編成は中間3両が非冷房という、当時の典型的な編成。ATC化のため、先頭車だけ新製して、中間の8両が全部非冷房という編成もあった。この場合、電源がないのでクハの冷房も使用できなかった。が、一部の利用者は、運転士だけ冷房しているんだろう、と勘繰る人もいたりした。。
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赤羽線が103系になったのはたしか’78年初めごろ。山手線が黄色の101系から103系に変わったとき、赤羽線のみ101で残されていた。103系化されて、黄色塗装のみ引き継がれた。
もっとも、全車黄色の編成はめったになくて、当初から黄色と緑の混結が多かった。クハは低運が主力だったが、次第に緑のATC車が先頭に立つことが多くなり、'79年には黄色いATC車が登場した(新製ではなく、200番-300番台の塗り替え)。今見ると何とも思わないが、高運転台の黄色いクハが出たのはこのときが最初だ。
黄色は埼京線には引き継がれなかった。今思うと、外回り電車は新宿でも池袋でも、ホームの反対側に黄色い電車が止まっていたわけで、勘違いして誤乗するひともいたのではないか。。

2014年10月25日 (土)

グローブ型ベンチレーター

(雑談です)。

近年新製された電車は屋根に冷房装置だけ搭載していて、通風器を省略している場合が多い。屋根一面ほとんど何もなくて、すっきりしている。
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ステンレス車や、スチールボディでも屋根だけステンレスにした車両などは、コルゲーションがあるので多少変化があるけど。
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自作模型を作るのはやっかいそうだが・。

通風器の省略は、外見上もすっきり見えるし、保守面でも楽なのだろうね。

冷房装置自体が進化して、外気との空気交換をコントロールできるようになったのかな。
以前は冷房装置とベンチレーターを併用していた。
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このベンチレーターは押し込み式ではなく、吸い出し式(ガーランド型)なのだそうだが、その話は後でするとして、とにかく通勤車に冷房がついた頃はこの併用型が主流だった。

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それが近年になって、この併用型の車両についていたベンチレーターを撤去する動きが目立つようになってきた。JR西の更新車が有名だったが、近年は西武も同じようなことをしている。
この写真に写っている冷房装置、上の写真と同じ型のように見えるが、通風装置の有無で車内換気にどの程度の違いがあるのだろうか?

もしかしたら、ほとんど違いはないのかな?

この車両は西武2000N系だが、オリジナル2000系はこのような箱形ではなく、グローブ型ベンチレーターが載っている。
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ちょっとわかりにくい写真で失礼・・。丸形の通風装置ですね。
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かなり大きい。通勤車など、車内が混雑しがちな車両に搭載されることが多かった。理由は通風機能が強力で構造が簡単だったから。国鉄では63型から始まり、歴代の通勤車、近郊型は113系の途中まで採用されていた。また、戦前型の旧型国電が更新される際も、ガーランド型からこれに交換されることが多かった。

近郊型でも、111,113系ではこのグローブ型だったが、115系は寒冷地を走行することが多いので、押し込み型を採用していた。また、仙石線に行った72系や新潟地区の70系なども、押し込み型に改造されていたようだ。グローブ型では通風量が多すぎて、寒くなるのだろう。

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103系は初の冷房付通勤車だったが、従来から採用していたグロベンはそのままに、真ん中に冷房装置を搭載して登場した。車内の熱気は室内の上の方に上っていき、そこからベンチレーターで外に排出される、一方冷気は下に落ちていくので、乗客は涼しさを享受できる、という仕組みかしら。ただ、換気効果が大きいと言うことは、窓を開けて冷房つけているようなもので、冷房の効率は落ちそうな感じがする。

201系からは押し込み式に変わったが、要は冷房時代には昔ほど通風量は多くなくてもよい、という判断が働いたのだろう。

ちなみに写真(98年5月、お茶の水)はクハ103-103ですね。この時代の事はなんとなくわかるが、今、西武2000の何番がベンチレーター撤去車なのかとか、そういうことはぜんぜんわからない。もうおじさんなので、ついて行けなくなった・・。
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グロベンは私鉄ではあまり採用されなかった。外見がかっこわるいから、とかよく言われるが、安っぽく見えるのが嫌われたのだろうか?
写真は東武73で、これは終戦直後に各社に割り当てられた国電63型の更新車なので、オリジナル車のベンチレーターを引き継いだようだ。63型を元に独自設計で作った78型は、ガラベン、後には押し込み型を採用している。

阪神の7801型は、新製車だけどコストを徹底して節減した結果、ベンチレーターをグロベンにしたらしい。後に3000系に改造される際に、ベンチレーターは撤去されている。

またまたちなみに、写真(81年4月、池袋付近)は、よく見ると池袋方の1両は押し込み型ベンチレーターになっている。ということは、両端の車両はモハ7329,クハ329で、中間は7302,302ということになる。おじさんなので、その辺のことは詳しい、はずだったが、もうだいぶ忘れてきてしまった。
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西武だけは、かなり長い間ふつうにグロベンを採用していた。501系、451系あたりはガラベンだったのが、後年に作られた新性能車の601,701系はグロベンを採用している。
2000系オリジナル車の大半はグロベン採用車だ。

これ故に、今でも我々はグロベンを普通に見ることができる。
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確か、前にも掲載したと思うが、雪の日の2000系。車内の暖房の熱気のせいか、一つだけベンチレーターに雪が付着していない。

というわけで、だからなんなんだ、という話でしたcoldsweats01

いや、子供の頃は結構通風器フェチだったのです。特に列車が走ると、空気が吸い出されて換気ができるというのが格好良かった・・。

2012年10月 8日 (月)

池袋駅 赤羽線と東上線

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 国鉄ホームから写しているが、赤羽線の方が少し長いのと、ホームがカーブしているために「並び」をきれいに撮るには東武ホームから撮るのが正解だ。この頃は50mmのレンズしか使えなかったので、周辺が広く写ってしまっているが、記録としてはそれも悪い事ではないかもしれない。1980年10月頃。

 この頃の国鉄側ホームは、現在山手線が使用している5番-8番線の2面4線であり、一番西側の4番線を赤羽線用に使用していた。東武は国鉄の番線を受け継いで東から5番線-9番線としていた。1983年10月に、今の埼京線ホームができたとき(当時はまだ赤羽線)、名称変更して1番線-5番線となった。

 5番線と6-7番線は目白寄りにもうけられた引き揚げ線につながっており、今のような頭端式ではなかった。引き上げ線は2線あったが、6両しか有効長がなかったそうで(時々78が留置されているのを見たことがある)、余り使われてはいなかったようだ。5番線から見ると線路が右に急カーブしていて、レール自体も細く頼りないような線路だった。8-9番線だけ、今と同じような頭端式のホームになっていた。そもそも南口は今のように地平にはなく、中央口のように地下に改札があった。デパートが改築になった92年頃に、今の形になったと思う。

 5番線は「特急、急行、準急のりば」であり、6番線、9番線は降車ホーム、7,8番線が各駅停車の乗車ホームだった。デイタイムの優等列車は毎時00,20,40分が急行、10,30,50が準急だったので、わかりやすかった。日中は78は6両が多く、8000も8両が中心だった。10両は朝夕のみ。

 国鉄側は山手線と赤羽線だけだから、今に比べると遙かに地味だ。今の1-4番線ホームの辺りは貨物側線になっていて、朝8時頃にはいつも貨物列車が停車していた。76年頃から通学に山手線を使い始めたが、ホームで電車を待つつかの間、機関車を眺めるのが楽しみだった。機関車は毎日のように違っていた。
 その頃の機関車は戦前のEF10,12、戦時型EF13、そしてEF15と、バリエーション豊かだった。EF10は初期の帯付きのタイプや丸形車体のもの、EF12,13もそれぞれ微妙に違いがあり、その違いを観察するのも楽しかった。貨車は当時の一般貨物用の車両が多かったが、模型でしか見たことのなかったワム50000が、側面を合板張りにした形で活躍していたのが印象に残っている。

 当時はデジカメも携帯もないし、それに当時の山手線は入場規制を何度も繰り返さないといけないぐらい混んでいたので、写真を撮るなんてとてもできなかったし、たぶん思いつきもしなかったと思う。戦前のロコはやがて引退し、EF65が中心となるが、列車自体はだいぶ後まで同じように停車していたと思う。

 ついでなので、池袋電車区付近の様子を。’80年6月頃。カメラを持ってうろうろしていたら、不法侵入すると思われたのか、職員の人が見張りにやってきた。こちらはもちろんそのつもりはなかったけど、ちょっと陸橋の上と、フェンス越しに何枚か撮ってみた。
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望遠レンズを使うと、焦点距離の関係でフェンスを飛ばせると、友人から聞いていたが、やはり標準レンズしか使えないので、網目模様が残っている。昔は全部MFだから、ピントがフェンスに来ることはない(というより、そんなことは考える必要がなかった)。
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留置中の103系。模型のようにTcMM'Tcを組んでいる。赤羽線は’78年に103系化された(それまでは101系)。それまでは車両が違っていたので、塗装は編成単位で整っていたが、103系になって、山手線と混用されるようになり(編成は8両)、時折ウグイスとカナリヤの混色編成が組まれることがあった、というより、一時期はほとんどそうだったかもしれない。

当初は低運転台のクハが充当されていたが、79年6月頃、カナリヤ色のATCクハ(高運転台)が池袋電車区に留置されているのを見た。たしかTc103-269が最初だったように記憶しているけど・・。271だったかな。高運転台でカナリヤ色の車両はこれが最初だった(それまではウグイス、オレンジ、ブルーのみ)。
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踏切にて。色味を直しすぎたな・・。


2012年7月25日 (水)

モハ200-1

たまたまちょうど5年前の画像アルバムを見ていたら、乗り合わせた201系(モハ200-1)の写真を見つけた。
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201系は試作車の営業運転開始初日(1979年8月)に高尾まで往復し、バイトに向かう緩行線から見た新車の量産型に魅了されてGMのキットを作り、沿線住民として4,5年通勤に利用した。その間に座席の色が変わり、つり革が増設され、正面に大型電照幕とスカートがついたりした。住み始めの頃、まだまだ新しいと思っていたのに、内装がだんだん色あせて音もうるさく感じられる事に驚いた記憶がある。

転居してからも比較的近くを走っているので、利用する機会は多かったが、あまり趣味的な目で見ることはなく、引退を追いかけることもしなかった。ただ、このときはふと思いついて、あの甲高い走行音を録音しようと、会社の帰りに東京駅から武蔵小金井当たりまで乗車した。ポータブルMDで録音したが、となりに座る女性の話し声まで録音されてしまい、あまりうまくいかなかった。
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音源を加工すればブログにも載せられるだろうけど・・。まあそのうち。

2012年7月 1日 (日)

KATO 111系

クモユニ74と同時に予約していたのだが、ようやく本体の111系が到着した。今回は到着のお知らせを受けてからほぼタイムラグなしで発注し、今日到着した。
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オリンパスMZ14-42を、F22まで絞って、なるべく視線を下げて撮影した。解析現象何のそのという感じだが、天然ジオラマモードになるよりはましだ。
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絞らないで撮るなら、真っ正面から狙うと超望遠で撮影したように見えるかも。
グリーンマックスから同じプロトタイプのものが出たことがあるが(1976年)、KATO
としては初めての111系である。セットは3種類あり、基本7両、増結セット4両(サロ+モハx2+クハ)、付属編成4両。今回買ったのは付属4両である。クモユニと合わせて5両を組むつもりだった。
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ただ、セットの説明書を見ていると、連結するにはクモユニのアーノルトカプラーを切断して、付属パーツを取り付けないといけない。それほど手間がかかるものではないが、何となく不可逆な改造には抵抗感を感じる・。とりあえず、古いTOMIXの113系につなげてみた。
そのうち面倒くさくなって、これが定着してしまうかもしれない。

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クモユニ同様、全体の作りはそつがなく、優れた造形だ。室内のシート部分がライトブルーで整形されており、この色がかなり目立つ。窓ガラスの透明度が高いので、余計目立つ。往年のカツミの特急用シートみたいな色だが、なぜこんな色にしたのだろう?
本当に気になるようになったら、塗り替えてしまおうかと思う。

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・・今度コンデジで撮り直しましょう。
右の113系(1000番台)はトミックス最初の113系で、1977年11月頃発売になった。その直後12月頃購入。個人的には目の覚めるような買い物?だった。当時の目から見てもかなり荒っぽい作りではあったが、何度か改修工事をして、今日まで生きながらえている。TOMIXのスプリングウォームはこの形式から始まっているが、当たりが取れたのか普通のウォームギアの車両より余程静かである。

ちなみにKATOの111は音質こそ悪くないが結構うなる感じだ。MT46ぽいと言えばそういう気もするが。


2012年4月30日 (月)

新桂川橋梁

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Apr. 29, 2012 Panasonic Lumix G3, 14-42mm. 
この原型スカ色は実に美しいと思う。115系もいなくなったら、一体何の写真を撮ればいいのだろう?幸い、E257系はフォトジェニックだけど。

もう24年も前、相模湖の駅前の喫茶店の2階で、女の子たちと話をしながら、駅を発着していく115系たちを眺めていたことがあった。あの頃はまだ原型車たちも健在で、編成も短く模型向きだな、とぼんやり考えていたことを思い出す。市販品があることは知っているが、自分なりに手を動かしてみたい。できればNよりも大きなスケールで、ボディの塗装の艶がきれいに出るように塗ってあげるといいと思う。実物があるうちに手をつけてみようか・・。

ところで、今「山スカ」で検索すると、115系も出ては来るが、「山スカート」というのも結構出てくるんだね。そのうち電車の方は死語になってしまうのかな。

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信州色。これももう登場してから20年になるのか。
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E233系。カメラはMFTの白い「ママ一眼」なので、こういう有名撮影地でフルサイズのレフ機とか、白レンズの人たちと会うとちょっと恥ずかしい。でも、安いしAF速いので、十分使えるんだけど。

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E257。このあと、183系が来たのに、失敗してしまう。
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G3の連写バッファがいっぱいになり、ボディにキロポスト?がかかってしまった・・。いや、カメラのせいじゃないな。焦って撮ったからだ。今度は古いD70sを持って行こうか。

本家うさぎくんでは、より一般的な記事を書いています。

2012年3月24日 (土)

103系の記事

鉄道ジャーナルの’12年5月号に、103系に関する記事が出ている。

記事の筆者は言う。103系は山手線など駅間距離の短い路線に向けて作られた特定用途向けの車両だったが、その後量産されて本来の目的以外の路線にも用いられるようになった、と言うのが定説だが、当時の設計者は汎用的な高性能通勤車を意図して造ったものである。
以下、115系などと比較して、高速性能こそ劣るが、トータルでの所要時分は遜色が無く、経済性にも優れる、としている。

かなり面白い説だ。工学院大学の曽根悟氏は、鉄道ピクトリアルの103系特集(何回かあったので、いつのときだったか。たしか’95年4月頃の特集だった気がするが・・)で、この電車がなぜ汎用的に使われ量産されるようになったのか、当時の事情を知っている人がいたら教えて欲しい、と言っていた。たしかに、全く不向きな車両を、財政面や組合問題など諸事情があったとは言え、3,000両も作っていたとすれば不思議であり、何か裏事情があったのではないかという勘ぐりもしたくなるだろう。

しかし、当時の大量増備が状況に照らして本当に不合理だったかどうか、明快な答えを導き出すのはなかなか難しいことだろうし、量産されていた時点によっても答えは変わってくるだろう。一定の時点までは同一性能の車両をそろえることに合理性があるが、度を超すとデメリットの方が目立つようになった、という事もあろうかと思う。

大量増備は今日のE231系でまた再現されている。この状態が20年後にどう評価されているか。

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1979年5月頃。74年から先頭車をATC搭載の高運転台型に置き換え、この年に完了した。すごくいい加減な書き方で恐縮だが(うろ覚えだけで書いているcoldsweats01)、最後に残ったのはクハ103-9,10、 19,20、 103,104、 177,178 当たりでは無かったかと思う。このうち、177,178は冷房試作車だった。

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