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2016年1月16日 (土)

小泉線の3050系の写真と、東上線の3000系の話

先日鉄コレの3000系のことを書いたとき、東上線にいた3000系のことが話題になった(30000系じゃないですからね・・・)。

私が「3000系」を東武の戦前型を車体更新した吊掛式の車両として、はっきり認識したのは’70年代の後半のことだ。その頃3000系は東上線には既になく、全車が野田線七光台検修区に配属されていた。当時野田線は18m車を6両、冷房サービスのために配属された8000系を4両で主に運用していた。中間モハ+サハを、他の4両固定から抜き出して6両固定編成というのも、出始めた頃だった。

その数年前までは東上線にも配属されていた。東上線からいつ18m車が撤退したのか、手元の資料には記載がない。ただ、昭和47年1月31日現在の車両配属表を見ると、14両が配属されている。

3105+3205+3305+3405
3110+3210+3310+3410

3501+3601
3502+3602
3503+3603

これは鉄道ピクトリアル’72年3月号増刊(東武鉄道特集)に記載されている資料だ。尚、私の持っているのは昭和47年3月10日発行、昭和50年4月15日複製、となっているもので、表紙が写真で複写されたような(活字が何となくにじんでいる)ものになっている。普通なら増補改訂版、みたいな言い方をするのだが、複製というのは珍しい。

全く同じ内容ではなく、終わりの方に、通常号に掲載された「東武鉄道・補遺」が追加されている。これは、ピクトリアル’73年8月号(だったと思う。9月号かも知れない)に掲載されたものをそのまま転載している。この号も持っている。

配属表だが、これは活字ではなく、当時鉄道が関係者のために作成していたものを、そのまま複写したものらしい。手書きである。

余談だが、’79年だかの今頃、友達と東上業務部を訪れ、同じような配属表のコピーをもらったことがある。ゼロックスコピーではなく、青焼きと言われる、湿式コピーだった。

ファンが語る系列の呼び方は、時として俗称というか、現場と違っていることも多いし、現場でも便宜的に、現場用語としてとおっている言い方をすることもある。

東武の場合、旧型車から1720型までを二桁でよぶ言い方がある。7800系列を78型というように。これは1961年の2000系以降の車には適用しないことになっていた、と思っていたが(附番の方式が変わったので)、現場ではそうでもなかったようだ。配属表でも、2000系の番号を羅列した最後に、(20,160R)と書いている。2000系が合計160両あります、という意味だ。Rは両である。

8000系も、ふつうは4,6両固定と2両固定を区別しないが、配属表は(81,146R),(85,72R)と書かれている。81は、4両固定、6両固定どちらにも使われる。85は2両固定のことだ。これは、業務上の必然性からそういう言い習わしになったのかも知れない。ちなみに、先ほど触れた「補遺」の筆者は花上嘉成氏だが、彼は8000系、8500系、3100系、3500系などという言い方をしている。8100系とは言わないのに、なぜ3100系というのか、よくわからない。旧32型と区別したいからかな?

話があちこち飛んだが、実は3000系と呼ぶようになったのは、昭和46年12月の改番からで、それまでは3500系と呼んでいた。モハは運転台つきも中間車も、同一形式だったようだ。番号は1から順番ではなく、台車形式によって分けられたらしく、編成単位でも統一されず、かなりややこしかったようだ。3000と呼べなかったのはたぶん、種車がモハ3200などという番号だったので、重複を避けたかったのだろう。配属表には、森林公園区所属の3000系として、(31 8R),(35,6R) と記載されている。

2両固定は最初に更新され、東上線(当時川越区)に配属された3編成だと思うが、番号は当初1~3ではなかったらしい。モハでいうと、3504,3507,3565,3571,3581のうちの3両らしいのだが、このうち2編成に中間モハ、サハが追加されて4両固定に変わったらしい。たぶん、3504,3507,3581なんじゃないかと思う。改番はおおむね更新の順番に行われた、と言うから。しかし、どの編成に2両組み入れたかはわからないから、やはり謎だ。というか、しっかりした資料は誰かが持っているはずだ(すみません、根性ないのでこれ以上調べられません)。

東上線から18m車が、いつ撤退したのかの資料はないが、昭和47年11月に、野田線の6両編成運転が始まっているので、その前だと思う。車体だけ見れば、結構きれいで新しく見えるし、逆に73,78などは板張りの床であの車体だから、乗客から見るとどちらが快適に思えただろうか?それと、池袋口の撤退はいつだったのだろう?

まあとにかく、70年代後半の東武鉄道では、幹線系(と都市部のローカル線)は20m級大型車(地下鉄乗り入れを除く)、ローカル線は主に18m級の更新車、という棲み分けになっていた。3000系、3050系、3070系(この番号もあとから改番されたもので、昭和54年に78型の更新車ができるまでは5000系と呼んでいた)の区別は、主に電動機出力の違いだが、運転室仕切りとか、細かい外観にも違いがあった。

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小泉線の3050系、たしか3151F。なぜかすごい傾いている・・。あれ、となりのコマが右端に出ちゃってますね。。

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館林駅。’94年9月。

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この座席と壁面は、東武博物館にたしか保存されていたな。
吊り広告はケンウッドのウッドストックですね。。CD時代ですが、まだMDではなくカセットでした。90年代後半頃まで、車内広告には家電が掲示されることも多かったようだ。覚えているのは、アイワが黄色い背景で、頻繁に広告を出していた。

今は車内広告は相当厳しいんじゃないですか?メトロ東西線なんて、網棚上の部分はほとんど空白の車両が多い。メトロは車内には自社広告を出さず、駅などにやたらと自社をアピールする広告を出している。あれは個人的には逆効果。もし私がメトロ株の大口投資家だったら、糾弾してやりたいところだが。

東武、西武などは、よく見ると自社の系列会社の広告が多くなっている。不動産、ホテル、スキー場とか。それはそれで意味があるけど。

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運転室部分だけ、後ろに拡張した形の仕切りは、3050系の特徴だが、同時期の8000系も同様のスタイルのものがあった。8000の場合は昭和45年製だけ、でしたっけ?昭和46年は中間車(サハ+モハ)しか作っていないし、昭和47年からは助士側も拡大した冷房車となる。昭和45年車も、冷房化時に同じ仕様に改造された。

初期の車の内装デコラは褪せやすくて、こんなふうに肌色に近いうすクリームに変色し、表面の艶も失せている。8000の冷房改造車は、車端部など一部のデコラを取り替えて、他はそのままだったので、色がちぐはぐになって目立った。更に、後から中間車を追加して6両固定になった初期編成は、追加車とオリジナル車の内装色が違って見えた。

後期(たぶん70年ごろ)のデコラは色あせ対策をしたらしく、時間がたっても色が変わらなかった。これは、国鉄103系などの淡緑色の内装でも同様だったようだ。101系、気動車みんなそうだが、10年ぐらいすると緑が抜けて灰色というか、青鈍色になって、薄汚れた感じに変わってしまうのだ。それが、70年代頃からの増備車はいつまでたってもきれいだった。

いやあ、また語りすぎましたねえ。うろ覚えのものが多いのですが。

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コメント

前にも記したかもしれませんが、当方は越生線で3000系乗車経験あります。
車体の汚れはそれほど見られませんでしたので、すでにレジンシューに変えたのかもしれません。

しかしながら車内光景は貴重なものかと思われます。
色褪せた化粧板はどこの線区でも見られたのですねw
そういった意味では、73・78の塗装が勝っていたのかもしれません。

12号線さん、コメントありがとうございます。

14両在籍だったとのことですから、4両編成で通常3編成の運用だったのでしょうか。。輸送力的には見合っていたかもしれませんが、車両運用を考えると20m車に統一するのが時代の流れだったのでしょうね。

内装の色あせはなぜか妙に心に引っかかるものがありました。材質の改良なのか、色あせが抑えられるようになったな、と思っていたのですが、後年の10000系辺りもまた色あせするようになっているようです。

こんばんは。
貴重なお写真、興味深く拝見しました。
3000系列は、できることならば一度でも乗ってみたかった車両です。
戦前製の走行機器で走る電車が、20世紀末まで残っていたと思えば、その存在に強く惹かれるものを感じます。
新しく作られた車体は当時の東武らしいデザインですが、足回りも含めて全体を見れば、やはり独特で目に止まります。
吊り掛け駆動の大きな音を立てて走っていた姿、乗り心地も良くはなかったのではないかと思いますが、自分で体験してみたかったものです。
そして、この車両を見ると、後に登場する5000系列の品質の良さ(車内は当時の最新の車両に近くなり、冷房も完備していた)も感じます。
いずれも、既に見ることはできませんが、東武の歴代の車両の中で、これらも一つの時代を感じさせてくれる形式ではないかと思っています。
今後とも、宜しくお願い致します。
風旅記: http://kazetabiki.blog41.fc2.com/

旅日記 さん、コメントありがとうございました。お返事が遅くなって申し訳ございません。

3000系列の東武での活躍は'96年までで、その後も上毛電鉄に譲渡された3050系がしばらく走っていました。

いずれも20年以上前の体験ですから、それほど記憶は鮮明ではありませんが、当時の東武のローカル線、特に日光線の新栃木以北の普通列車は遅かったです。。吊り掛け独特の音でゴゴゴと力行したかと思うと、すぐにノッチオフ、そのまま延々惰行という感じでした。こちらとしては豪快なモーター音を期待していたのですが。。むしろ上毛のほうが生き生きと走っていて、イコライザ式台車の乗り心地も満喫できました。

5000系列も野田線は今よりも最高速が遅く、同じような感じでした(本線時代はかなり飛ばしていましたが)。
 '81年の5050系からは仰るように冷房付き、RCT軸受、台車シリンダーに改造され面目を一新しましたが、最初期のオリジナル5000は非冷房で3000系と同様の仕様でした。201系とほぼ同じ時期に登場したのに、この装備は!と、当時は腹を立てながら!?乗車したものでした。今思うと天井に並んだ扇風機など、写真に残しておけばよかったと、後悔しています。

東武は吊り掛け式がかなり遅くまで残り、少年時代は沿線住民として不満の種でしたが、今から思うとむしろ幸せな境遇だったのではないかと思います。。

ブログ、拝見させていただきました。独特のアングルからの写真から、鉄道への愛情が伝わってくるような気がしました。今後ともよろしくお願いいたします。

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