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2013年9月25日 (水)

朝霞駅(複々線化前)の配線について

朝霞のことを色々調べていて、goo古地図のことを知った。昭和22年と、昭和38年の航空写真を見ることができる。本来は23区の写真だが、朝霞駅もぎりぎり写っている。

これ、おもしろい・・・もう鼻血が出そうだ。昭和22年の写真では、朝霞駅構内にもそこかしこに貨車が留置されている。被服支廠-当時はキャンプドレイクと言ったらしいが-にも貨車が止まっているのが見える。ずっと見ていくと、啓志線にもいくつかの留置線があり、やはり貨車がたくさん止まっている。和光市駅-当時はまだ大和町でもなくて、新倉と言ったらしいが-は停留所ではなく、上り線側に貨車留置線があり、無蓋車らしきものがいる。成増の引き上げ線は当時からあったようで、2両編成の電車が止まっている。

38年の写真をみると、あちこちに4両編成の電車が見える。73,78系らしい。4つのドアが開いているらしいことまでわかる(幻想かな?)。グロベンらしいものも見えるようだ。

川越街道は22年の写真でもかなり立派に見える。軍関係の施設があったので、整備されていたのだろう。自分の生まれたところ、最初に住んだ辺りとか、見ていると興味が尽きない。

話を戻そう。’74年当時の朝霞駅は、国鉄の汽車駅のようなたたずまいを残していた。駅舎、ホーム上屋、トイレ、跨線橋、信号所、上り線ホームの待合室など、トミックスやGMのローカル駅プラキットそっくりだった。

貨物扱いはさすがになかったが(よね)、下り線寄居寄りには貨物ホーム跡があり、上屋も残っていたと思う。国鉄の駅にあるような、短い引き込み線と上屋だ。今の南口側に駅本屋があり、こちらが1番線(片面ホーム)。跨線橋を渡って、上り線ホームに出る。

上り線ホームは島式で、内側というか、南口に面した方が2番線、こちらが本線だった。上り線と下り線の間に中線があったが、その頃既に使用されていなかった。たしか76年の春頃だったかに、本線が外側(旧3番線)になった。たぶんその年の11月に行われた、10両編成運転に備えたものだったと思う。ほぼ同時に6月か7月頃、下板橋の下り本線が、今のように上り本線と平行するようになった。以前は留置線が上下本線の間にあり、下り本線は南側に大きく迂回していたのだ。
保線用車両は当時も今と同じような位置にあったと思う。たしかオレンジ色のモーターカーがいたのではなかったか。ああいうのは今はいなくなってしまったな。そうえいば貨車移動機なんていうのも、いたなあ。

ドレイクへの引き込み線へは、中線からスイッチバックして入線したものと思われる。本線に沿って新倉方に引き上げ線が延びていたようだ。今のメトロ車庫の辺りかと思うが、本線よりやや低い位置に築堤が伸びていて、和光市寄りにのこぎり屋根状の形をしたコンクリートの構築物が長く伸びていた。未だにどういう目的の構築物なのか、わからない。

引き込み線のカーブは、廃線跡として長く車窓から見ることができた。今の変電所のあたりだ(変電所は移設したらしい。今のパチンコ屋の裏辺りにあったようだ)。当時はヒマラヤ杉の木がぼそぼそ立っていて、平屋の家があって、なんとなく鄙びたムードが漂っていた。

’79年3月、もうすぐ学校も終わるという頃、帰りに駅の周辺を歩いたことがある。歩いても何の引き込み線かわからず、要領を得なかった。あの頃はまだ、基地の街のムードが残っていたかもしれないのだが、その辺のことは全然記憶にない。

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コメント

はじめまして。当方S48年ごろ朝霞に居住しておりました。
さすがに貨物取扱はありませんでしたが、旅客電車退避のためか2番線に上り貨物列車が止まっている姿を見掛けたことあります。

その後保線用を除いて側線が撤去されましたが、朝霞キャンプ場への分岐跡に残るポイントや踏切跡など、今で言うトワイライトな空間が当時の遊び場でもありました。

現在は和光に戻っておりますが、古地図で大和町駅見ますと駅前に自動車教習所みたいなコースが確認できます。
同場所、後年のゴルフ練習場しか記憶にないのですが、新たな発見に驚いたものです。

12号線さん、初めまして。お返事遅くなり、申し訳ございません。
朝霞にお住まいだったのですね。私は鶴瀬に住んでいましたが、朝霞は通勤車より蒸機列車の方が似合うようなたたずまいで、とても好きでした。カーブした引き込み線は車窓からも見えたので、いつも気になっていました。

大和町の教習所、どこかに記憶があるのですが・・。電車内から川越街道側を見ると、ホンダ?の建物と、塀が遠くの方に見えていたように思いますが、手前に何があったか(畑?)思い出せません。
ありがとうございます。

はじめまして。娘に教えてもらいながらのネット初心者です。
祖母が70年前、朝霞で雑貨屋(夏は氷屋)を営んでいたそうです。
私も社会人になるまで朝霞に住んでいました。
祖母が言ってましたが、当時列車本数が少なかったのでしょう、汽笛と煙でお昼とか、おやつの時間とか判断していたそうです。
「goo古地図」すごいですね。あと少し北が写っていれば祖母の家が確認できたのですが。

>和光市寄りにのこぎり屋根状の形をしたコンクリートの構築物
覚えています。今でも頭の中のモヤモヤの1つです。写真がアップされていないかと探してみましたが・・。
「東上沿線 今昔物語」のホームページで少し触れられていますね。

オレンジ山さん、はじめまして。コメントありがとうございます。
70年前というと、終戦前後という時期でしょうか?軍関係の施設があったので、その頃から駅前はだいぶ賑やかだったのでしょうね。
それでも汽笛の音が時計代わりに使えたとは、時代が偲ばれます。
goo古地図、本来東京都を範囲としていたらしく、朝霞の途中で切れてしまっていますね。お祖母様のお宅が見られず残念です。もう少し後の時代で良いから、私も鶴瀬駅付近が見られればなあ、と思うのですが・。
あのコンクリートの構築物は、電車からよく見えて、通る度に昔はどんなことに使っていたのかな、と考えていました。今はすっかり変わってしまいましたね。どなたか写真をアップしてくれればな、と思います。

「あのコンクリートの構築物」は、中央工業(株)新倉工場で生産された九四式小型拳銃、九六式軽機関銃等の試射を行った射撃場跡のようです。東武東上線に接する同工場(現・本田技研)北南端部との間に、長さ300メートルの屋根部分が地上に露出する半地下構造でありましたが、地下鉄有楽町線乗り入れの際の線路拡張工事により取り壊されたとのことです。(シーアイハイツ和光「管理組合だより」に2011年から2012年にかけ5回にわたり連載された『郷土の記憶~CIハイツ和光とその周辺の歴史』(井本昭氏投稿)による。)

Forrest Avenueさん、コメントありがとうございます。
う~ん、そうだったんですね。駅近くに線路があったことと、細長い構築物だったことから、貨車の積み荷をどうにかするところかと思っていました。毎日のように眺めていたのですが、写真を撮らなかったことが悔やまれます。

再度の投稿で失礼します。
一部ですが、コンクリート構築物が以下のURLでもご確認いただけるかと存じます。

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/7318/headmark/hmhtml/hm011203.htm

この構造物前まで朝霞駅から通じていただろうと思われる廃線後があり、その築堤は後の複々線化に用いられる事となります。

12号線さん、情報ありがとうございます。
確かにコンクリート構築物がわずかに見えますね。記憶にあったよりも線路に近い感じです。撮影場所は農道か何かの道ばただったのでしょうかね?・・急に思い出して、昔の鉄道ピクトリアル「東武鉄道特集号」(’81年7月号 No.392)を見返してみたのですが、P146に、「最近の工事から」というグラフがあり、そこにほぼ同じアングルからの写真がでていました。撮影は'81.4.7との事ですが、既にこのとき工事がかなり進んでおり、高架橋ができかかっています。
先頭の旧塗装2両は7870のようですね・・。

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